New New New Normal

05 Sep - 03 Oct 2020

Gallery MoMo Projects

Namae Myoji x Layla Yamamoto x Souya Handa

Curated by Souya Handa

展示風景 Exhibition View (Photos by Gallery)

<展示概要>

■展覧会名:New New New Normal

■アーティスト:みょうじ なまえ, 山本 れいら, 半田 颯哉

■会場:Gallery MoMo Projects

■会期:202095日(土) - 10月3(土)

キュレーター:半田 颯哉

■詳細: https://www.gallery-momo.com/new-new-normal-roppongi

半田 颯哉《白人男性コスプレセット》パフォーマンス Souya Handa Performance of White Male Cosplay Set (Photos by Kento Terada)

<展示解説>

はじめに 本展について

 COVID-19の災禍に見舞われている2020年。急激な社会変化の中、「Social Distancing」や「ウィズコロナ」に「アフターコロナ」、「東京アラート」など多くの新語や造語が流入・誕生してきた。「New Normal」も、COVID-19の流行に伴って流入してきた新語の一つである。

 「New Normal」という言葉は2007年のサブプライムローン問題に端を発した世界金融危機の後に一般化した。社会変化が表面的なものではなく構造的なものであり、危機の後に訪れる普通は危機以前の普通とは異なる、即ち「新しい普通」であることを意味する。

この「New Normal」という言葉には、「こうして訪れる新しい普通を受け容れろ」ということが含意される。言い換えると、この変化は我々にとって受動的なものであるということだ。しかし、変化はいつだって受動的なものであるわけではないし、寧ろ能動的な変化は常に求められる。例えば今年6月、女性管理職の割合を30%にするという政府の数値目標の期限が2020年から2030年に先延ばしされた。「現実的に達成は不可能」が先延ばしの理由とされたが、受動的に変化を待ち続けた結果がこの変化のない状況だろう。

 我々が社会を前に進めるためには、理想の社会像と現状を照らし合わせて問題を明らかにし、その問題の解決を試み、そしてその問題が解決したのか、解決方法に瑕疵はなかったかを検証し、その反省を基にまた社会の現状から問題を見付けて解決していく、というサイクルが求められる。本展「New New New Normal」では、3人のアーティストが日本社会の問題に切り込んだ作品を提示し問題を顕在化させることで、この能動的変化のサイクルの第一歩目を始動させることを促す。


「西高東低」と「家父長制」

 本展を読み解いていくためのキーワードとして、「西高東低」と「家父長制」という二つの言葉を用意した。「西高東低」はもともと西側が高く東側が低い気圧配置の状況説明のために用いられる気象用語だが、転じて西洋文化を優れたものとして上に、東洋文化を劣ったものとして下に見ることを指して使うことがある。「家父長制」は家長としての父親が権力を持ち、またそれが長男に継承されていくような男性中心的な社会制度のことである。男性に権力が集中することで男尊女卑的な価値観も強化していく。

 興味深いのは、日本においてこの2つの価値観はたびたび交差している。例えば、明治時代に西洋文明を受け入れて以降、社交の場で男性は洋装、女性は和装という場面はよく見られる(園遊会における天皇・皇后の装いは典型的である)。家長である男性が目上で女性が目下、そして文明的である西洋文化が上で土着的な自国文化が下という、上下観のマッチングが生じているのである。

 この2つの価値観を念頭に置いた上で、本展のキュレーターの視点から各アーティストの作品を解説していきたい。


みょうじ なまえ

 みょうじなまえは本展でミュージアムショップを模したインスタレーション《OUR BODIES》を展開する。これは商品が流通していく通過点としてのミュージアムショップと、それを通して消費者の手元に製品が普及していくまでが作品である。《OUR BODIES》では、エドゥアール・マネ《草上の昼食》、ギュスターヴ・クールベ《世界の起源》、アンリ・マティス《ダンスⅠ》に服が加筆されたイメージを基に制作された、ポスターやポストカード、マグカップ、トートバッグなどのグッズが陳列され、これらのグッズは実際に購入することも可能である。ゲリラ・ガールズが「女性がメトロポリタン美術館に入るためには裸にならなければならないのか?」と問いかけたように、アートシーンに女性アーティストは少ないが、男性アーティストが描いた裸の女性像は多数存在する(1989年のゲリラ・ガールズの作品では、メトロポリタン美術館の近代美術部門のうち女性アーティストは5%未満であるにも拘わらず、裸体像の85%が女体であることが指摘されている)。これは決して女性の身体が普遍的な美を持っているからではなく、歴史的に制作者と評価者の中心が男性であり、女性や女性の身体が彼らによって客体化・対象化されてきたことの結果だろう。みょうじの試みは、このような近代以前の価値観から女性たちにとっての「Our bodies(=私たちの身体)」を取り戻すことであるといえる。

 興味深いのは、ミュージアムショップというアート作品のコモディティ化の現場にみょうじの着眼点があることだ。ミュージアムショップではアートという権威がグッズ化され、大衆の手元に普及していくが、この一連の流れに乗り、権威の中に内包化された女性の客体化の価値観も普及していってしまう。みょうじは言及しないが、「元ネタ」として扱われている作品が西洋絵画であることもポイントであるように見える。近代の西洋列強諸国の帝国主義政策によって、日本をはじめ多くの非西洋圏で西高東低の価値観は植え付けられ、それは文化芸術の評価基準にも影響を及ぼした。アートはアートであること自体に権威性を持つが、西洋のアートとなると日本では二重の権威として機能する。ミュージアムショップはそんな二重の権威が内包する価値観が資本主義下の自由市場に乗ってトリクルダウンしていく現場である。

 みょうじはこの仕組みを逆手に取り、自身がミュージアムショップを運営することで、女性の客体化に逆らうような自身の作品を流通させていく。それも、展示会場でその場で作品グッズが購入できるというだけでなく、展示と合わせてオンラインストアを開設し徹底してコモディティ化を進める。この作品としてのミュージアムショップを運営するというみょうじの試みは、資本主義の背後にある権力へ、同じ資本主義の仕組みによって対抗していくことである。


山本 れいら

 山本れいらは日本の社会構造や歴史の中に孕む問題を描き出すアーティストである。本展では「妊婦であること」が持つ身体的負荷だけでなく、歴史的意味や現代日本社会が持つ不寛容を露にする。

 高校時代から自身の投影像として子供の姿を描いてきた山本だが、周囲の同世代女性が結婚、そして妊娠・出産を経験していくことに伴い、その「子供が産まれてくること」についても考えるようになる。「恋愛し、結婚し、そして母になること」が社会的に女性の幸せとされる一方で、妊娠・出産時に掛かる身体への負荷や、それまで築いてきたキャリアが途絶えてしまうことといった「生の声」も存在する。このような理想化される妊婦像と当人たちが感じる現実との間にある大きなギャップが本展での展示作の起点となっている。

 今回の山本の作品を分析すると、「妊婦の身体」「妊婦に社会的に付与される機能」「妊婦の自己決定権」という3つの視点が作品に反映されていることが見て取れる。そしてこれらはいずれも社会では不可視化され、見えにくくなっているものである。

 いかに日本の妊産婦死亡率が低くとも、今でも日本で年間30~40人が命を落とすほど、出産には身体的リスクが伴う。そんな「妊婦の身体」に掛かる身体的負荷のうち、視覚化されるものとして妊娠線がある。妊娠線は妊娠によって腹部が急激に大きくなっていくことで真皮に亀裂(所謂「肉割れ」)が生じたものだが、マタニティフォトのような妊婦のモデル写真にはその様子が写ることはほとんどない。妊婦の身体の視覚的理想化が進むあまり現実との乖離が大きく生じており、出産経験者やそのすぐ近くにいた人でない限りその存在は認知されにくい。「MY BODY, MY FEAR」と描かれている《Things against oppressors》や、妊娠線の出ている腹部を描いた上にマーガレット・アトウッドを引用したフレーズを記した作品群は、いずれもこのように不可視化された身体負荷を可視化させる作品である。

 「妊婦に社会的に付与される機能」は言い換えれば「妊婦が社会からどのような存在として見なされているか」ということである。《My womb as his reproduction system》《The myth of maternal body》に描かれている「The bourgeois sees in his wife a mere instrument of production.(ブルジョワジーはその妻を産むための道具としてしか見ていない)」はカール・マルクス『共産党宣言』から引用したフレーズである。「産む機械」という発言が日本でも政治家から飛び出したが、家父長制において女性の身体はまさに、父の遺伝子を継承し家を存続させるための機械であり、これは女性の社会進出や妊娠・出産によるキャリアの断絶に繋がる話でもある。女性の役割が家の存続のための道具として規定されている社会の中では、妊娠・出産を経つつも自身のキャリアを築いていくこと、況してや女性が指導的立ち位置となることは想定されていないのも当然である。

 これら2つの視点を踏まえた上で、山本は反出生主義の立場を取るのではなく、「妊婦の自己決定権」に着目し、妊婦、延いては女性全体に寄り添うことを選ぶ。山本が「MY BODY, MY FEAR」というフレーズに込めているのは、如何に母親が「聖母」として神聖視されていたとしても、自身を聖母像に重ねて堪える必要はなく、その(身体だけでなく、社会的なものを含めた)痛みを訴えてもよいはずだというメッセージである。妊娠は家の為に受け容れるものではなく女性自身が決定権を持つことのできるものであり、また妊娠を選んだとしてもキャリア形成を通した自己実現の機会は失われてはならない。山本の作品は、女性の主体的選択肢を増やすために寄り添うものである。また、このようなリベラリズムをベースとする社会規範もまた西洋圏から来たものであり、《Things against oppressors》に描かれている女性像が白人なのも(西高東低な日本において理想化された人間の姿は白人となることを表すとともに)社会における先進的な概念はいつも西洋から来ているという現実を反映している。このあたりはアメリカで教育を受けた山本の眼が日本社会を的確に捉えている表れだろう。


半田 颯哉

 半田颯哉は「思想なくして社会革新は起こし得ない」というコンセプトを掲げ、主として科学技術と社会の関係を批判的に捉えているアーティストである。また、日本の高度経済成長期を支えた科学技術産業を日本のアイデンティティの一つと捉え、工業製品をメディウムとして用いることが多い。本展では半田はそんな日本人の持つアイデンティティ意識のアップデートを促す。

 日本はアジアの国であり、日本人の95%以上を占める大和民族は黄色人種である。わざわざ書くまでもないように見えるこの当たり前の事実は、果たして本当に日本人の中で当たり前の事実として共有されているのだろうか。2020年はCOVID-19と並び、「Black Lives Matter」運動(以下BLM)がアメリカを起点として各地を席捲した。インターネット上や、あるいはテレビメディアを眺めてみると、日本人たちの意見はBLMに否定的なものや、寧ろ白人側の肩を持つようなものが多いように見える。白人国家の中に入れば、日本人もまた差別の対象となるにも拘わらず、である。また別の例では、欧米で自身が中国人や韓国人と間違えられたときに「自分が日本人だと理解してもらえれば差別されることはない」と考えている人も散見される。

 日本の非アジア意識、また日本人の白人意識は歴史的に根深いものだ。明治時代には、「脱亜入欧」をスローガンとし、アジアの一国ではなくヨーロッパの一国となるという意識が持たれ始める。敗戦後にはアメリカ文化の影響を多大に受けた上、アジアの中でも抜きんでて早く経済成長に成功し、アメリカに次ぐ世界第二位の経済大国となったことは、「劣った」アジアとは違うという意識を持ったこともこのようなアイデンティティ形成に一役買っているだろう。また、かつて同盟国だったドイツで名誉アーリア人として、また戦後には南アフリカで名誉白人として扱われた負の歴史も忘れることはできない。

 半田はこのような「名誉白人意識」を持つ日本人に対して、自身のアイデンティティを見つめ直す鏡として機能するような作品を提示する。《EAST ASIAN》は鏡の上に東アジアの3ヶ国の名前が並び、外見が似通った国に対して差別感情を持つ無為さを、「Ceci n'est pas」シリーズでは日本人が持つ憧れ、文章上の定義、実態を織り交ぜ、くすんだ鏡の上に提示することで歪んだアイデンティティを見詰め直すことを説く。

 また、日本人が自身を被差別側にいると見なさない理由はもう一つ、そのほとんどが大和民族からなる事情があるだろう。特に、男性で大和民族でヘテロセクシャルであれば、家父長的価値観の残る日本社会では圧倒的なマジョリティとなり、差別を体感する機会はほぼない。《多神教》や《白人男性コスプレセット》は、そんな差別を感じにくいマジョリティの立場にある日本人が無意識的に欧米文化への劣等感を内在化させ、それらを無批判に崇めてしまうことや自分たちを欧米文化に寄せようとする姿を批判している。特に《白人男性コスプレセット》は前述した西高東低と家父長制の交点として、日本人男性が洋装を礼服としていることが反映されている。

 但し、半田が主張したいのは「アジア人としての身の程を知り、弁えろ」ということではない。例えば、《EAST ASIAN》は非東アジア圏の鑑賞者に対しては、同じ東アジアでもその内実は単一化できるものではなく、それぞれ文化も歴史も異なることを示す。そして、アジア人としての自身やアジア文化を再認識し、アイデンティティの再構築を行うことで、日本は自身の強みを活かす国として再出発できるのではないだろうか。


終わりに 服とアイデンティティ

 本展の解説を締めるにあたり、3人のアーティストがいずれも「服」を扱っていることに触れたい。服というものは一番外側の自分であり、他人から見られる自分の姿の大部分である。だから、着る服を選ぶという行為は、他人から見える自分をどのような姿としたいかを選ぶことでもある。

 COVID-19は混乱と同時に社会の再構築の可能性をもたらしている。であれば、漠然と元の日常に戻ろうとするのではなく、これを機にどのような姿となりたいかという「New Normal」を選び取り、そしてそれを実現していくべきだろう。本展で3人のアーティストが提示する3つの「New」は、彼らが選び取ろうとしている自分の姿でもあるのだ。


「New New New Normal」展 キュレーター

半田 颯哉